結婚と言う私の敵

この記事にこれから書くことは、誰かを傷付けたくて放つ言葉ではない。
結婚という、言うなれば私の敵に対する文句とフラストレーションであり、すべて個人の身勝手な感情の発露だ。

 

結婚とは「素質」だと、私は常々感じている。
ここで、というより私がこのブログで使う結婚とは、多くの家庭が形作る家庭の形を指している。大概は女性が家事を行い、子供を生めば女性が主に育児をする、といった家庭のことだ。育メンだなんだと取り沙汰している時点では前記の枠組みの域を出ない。
結婚をするための素質とは、そういった家庭形態を受け入れられるかどうか、である。

 

そんなものは当たり前だと思うだろうか?
そう感じるとしたら、あなたは素質がある。
世の中には私のように、断固として受け入れられない人間もいるのだ。

 

私の家は母子家庭の女系家族である。
母は一家の大黒柱として男性と同じ仕事をこなし娘二人を育ててみせた。男性に頼らずとも生きていけるし、家事は分担せずとも気付いた者がやればいい。
そんな家庭で育ったからと言えばそれまでだが、私は生きることにおいて男性が必要だとは感じない。
恋人がいてもいいが、毎週会うなんて正気の沙汰ではない。趣味が生活の中心である私にとって、自由時間は趣味と友人と恋人とに等分されるべきものであって、そのどれかがどれかの時間を侵すことはあり得ない。
私にとって恋愛とは、結婚と結びつかないのだ。

 

だけど世の中の多くの女性は、息をするように結婚のシステムを当然のものとして受け入れている。それが私には不思議で仕方ない。

 

私をわがままだと思うだろうか。別にそう言われても構わないが、私としては自然に考えた結果なので、わがままに振る舞っているつもりは無い。
少子化は深刻な問題だが、日本の社会が結婚も出産も自由意志を認めている以上、誰も私を、そして私と同じく結婚を敵とする人を咎められはしない。
世間に流れる風潮がどれだけ私たちにとって息苦しくあったとしても、私たちは間違っていないのだ。
子供を生まない女性に価値は無いと言い放つ政治家が糾弾されるのであれば、たとえ独身であることに冷めた視線で刺されようとも、身を縮める必要なんてこれっぽっちもありはしない。

 

今の日本の家庭は本当にイーブンだろうか。
出産という役割が動かせない以上、仕事と生活環境のリスクを負うのは女性ばかりで、だというのに女性が育児をしながら働かなければ成り立たなくなってきている経済状況で、本当に結婚は幸せなのか。

 

私はそれがどうしても飲み込めない。
育児のために男性の収入に一時でも頼らなければならないことも、収入と拘束時間の差で家事の大小が変わることも我慢がならない。いざやらねばならなくなり、パートナーに親愛を持てていれば、そういった生活も可能だろう。だがわざわざ婚活なんぞして自らその場に身を投じようなどとは思わない。

 

重ねて言うが、私は結婚できる、結婚を望んでいる女性を責めているわけでも馬鹿にしているわけでもない。
ただ、彼女と私を隔てているのは、やはり生まれつきと言ってもいい結婚の「素質」なのだ。
そして、今の自分を肯定するのと同時に、結婚の「素質」を持つ人ことがたまに、たまらなく羨ましくなる。
そんな、結婚制度を嫌悪しながらも刷り込まれた結婚へのキラキラとした憧れを知らず抱えている自分すらも、愛してやらねばと思うのだ。

 

私たちはもっと、この不経済と半端な自由と自立を許す社会で生きる自分たちを、愛して許してあげてもいい。