第三次一人暮らし戦争

見事に敗戦しました。

 

齢30にもなって、と思う人もいるかもしれないが、私は一人暮らしをしたことがない。

というのも母が「結婚するまで家から出さない」という昭和か明治の頑固親父のような主義の人で、それが母子家庭特有とはいえ深い愛情から来ているとわかっているので、出来るなら意思に添いたいと私も思っているからだ。

過去二回の一人暮らし戦争は、若い頃に自立への欲求が猛烈に高まったときのものだ。

ちなみにその日の内に敗戦している。

さて、ではなぜ今になって再び戦旗を掲げたのかといえば、姉の行動に堪りかねたからだ。

前回の記事で姉がクズを好きになったと書いたけれども、おそらくそのクズと一ヶ月程前くらいから付き合っている。

本人から申告はない。けれど家に上げられれば嫌でもわかる。

姉は家にそのクズ彼を呼ぶのに「ちょっと人が来る」と言うのだ。

「友達」でも「知り合い」でも「職場の人」でもなく、「人」。

姉は秘密主義のくせに、誤魔化すのが致命的に下手なのだ。あまりに下手すぎて、わざと周囲を困らせたり怒らせたりしたいのだろうか、とすら思う。

秘密主義は大いに結構だ。別に全てをつまびらかに話すようになんて要求していない。

でも隠すことで生じる不信感や意思疎通の滞りは、隠した当人が上手く避けるべきだろう。姉はそれをしない。出来ないのかは知らない。

で、だ。とにかく姉は関係性のわからない人間を家に上げる。もちろん何をしに来ているかも言わない。

そして、色々な要素がその人間=クズ彼だと示している。

しかも、ここが許せない最大の理由なのだが、「人が来るけど、その時間家に帰ってくる?」と母に訊くのだ。

母は仕事柄時間の自由が利くので、平日の昼間に早く帰ってくることも多い。

頑固親父のごとく男気に溢れる我が家の母だが、同時にとても優しい人なので、そう言われると「人」とやらがいる時間は避けて帰ろうとしてしまう。

仕事で疲れたり、家でやらなくてはいけない用事があっても。

 

おわかりだろうか?

私が言いたいのはひとつだ。

何でお前が母を追い出すんだよ!!!である。

 

前にも書いたが我が家は母子家庭で、母が大黒柱だ。頑固親父は比喩ではなく、母は母であり父なのだ。

その母の家で、家賃分だけ入れているだけの私たち子供が、何の権限があって母に出入りを禁止できると言うのだろう。

しかも母に会わせたくないという、自分勝手な都合だけで。

 

そもそもいい年した女が家族に会わせられも関係性も言えない男を家に上げるなという話だし、「人」とか言って誤魔化す癖に男物の香水やら煙草やらの残り香はそのままにするし、我が姉ながら愚かなのかと言いたくなる。

 

これで姉の頭が悪ければ「しょうがないな馬鹿だからな」で済むのだが、あれで頭は良い人なので、さらに悪感情が募る。自分の言動が他人にどう受け取られるのか、それ以前に相手への配慮を思いつかないのか、という疑問に「そんなはずはないから、私たちのことなど気遣うに値しないと思っているのでは」と勘ぐってしまうのだ。

 

姉にとっては良く知る人だったとしても、私たちにとってみれば得体の知れない人間が自分の知らないところで家に上がり込んでいるのだ。当たり前に気分が悪いし、今朝いつも通り開けっぱなしにして出て行った自室の扉が帰宅したらぴったりと閉じられているのは、確かに他人が家に来たのだという事実や私の存在を隠そうとする姉の意思を感じて嫌な気分になるし、廊下を挟んで1メートルしか離れていない姉の部屋にいたのだと思うと心底ゾッとする。

なぜなら、私は(これは自分の都合だが)男が苦手であり、見ず知らずで嫌な噂しか聞いていない男が自分の家に入り込んだことに強い嫌悪感を覚えてしまうからだ。

 

母へのあまりな態度が我慢ならず、生理的に耐えられない。

けれど姉の行動が、余計な情報を入れなければ単に「家に自分の客を呼ぶ」というだけの、一概に非難できる行動じゃないこともわかっている。

だから私の方が家を出て行くべきだと結論づけたのだ。

夜勤の姉とは生活時間が合わないし、そもそも家を出るのに姉の承諾など必要ないため、母にだけそれを相談した。

ホルモンバランスが崩れているのもあり情けなくも大号泣で「耐えられない、家を出させてくれ」だ。

母は私の話に大いに理解を示してくれたけれど、「こんな下らないことであなたが家を離れるのは許さない」というのが最終的な答えだった。

しかもよほど私が家を飛び出しそうに見えたのか「次に姉がその人を家に上げようとしたら、姉にいい加減にしろと怒るから、家を出ないと約束しなさい」と珍しく強い口調で言うので、結局は私の方が折れてしまった。

(私たちが大人になってからの母との関係は友達に近いそれなので、この親らしい強さは本当に稀だ)

 

親なら普段から姉に厳しく注意すべきと思われるかもしれないが、過去いろいろとあったことで母は姉に甘くならざるを得ない。だから今の姉が出来上がっているのだが、その母がそこまで言うのだから、母も思うところがあるのだろう。

母は私たち姉妹を平等に愛してくれているので、どちらかを優先するということはない。私の可愛さ故に姉を軽んじる、ということはせず、叱るときは母が必要だと感じた時だけだ。

私が直接言えればいいのだが、姉が反発するのが目に見ているのでやるとしても最後の手段にしようというのが私と母の共通意識だ。

自分よりも立場が弱い「妹」から、自覚している己の否を指摘されて素直に改められる人であれば、そもそもこんなことはしていない。

 

母に窘められても(母は叱るときは雷親父なのでそんな静かなものではないが)姉の行動が変わらない時にはやはり私が家を出て行くしかないので、今から少しずつ荷物の整理をしておこうと思っている。

望むのなら母も連れて行く。愛猫を抱えて二人と一匹で楽しく暮らせばいいし、姉は一人暮らしをした部屋にクズ男を存分に呼ぶなり住まわせるなりしてほしい。

 

それでも。

それでも、私はやはり姉のことを家族として愛している。

どうしても許せないことや、理解できないことがあっても。

 

姉のユーモアのある人柄を好ましく思う。大切な家族だと思っている。

出来るなら、このまま三人と一匹で一緒に暮らしていきたい。母と私だけのほうがいくら全て上手くいくとしても、私の感じるストレスがどれだけ減るとしても、やはり邪魔だとは思えない。悲しいことに。

 

姉にとっての母は、そして私は、どうなのだろう。

本心だとしても、大切だなんて言わないでほしいと願う。

だって姉の行動は、その言葉を信じさせてくれないから。

姉の男運が悪すぎる件について

私には姉がいる。

私よりも強固に結婚を拒んでいるため同様に独身で、それでも私よりは恋愛の数は多い。が、ここ数年はさっぱりそんな気配がなく、本人も恋人なんていないほうが気楽のようなことを言っていた。

というのも、タイトルの通り、姉が付き合う男はいつも碌な人間じゃなかったからだ。

歳が少し離れているため前歴の全てを知っているわけではないが、おそらく二人目の彼氏だっただろう男が、結果的にストーカーと化したのは強烈に記憶に残っている。当時通信量によって料金が加算される頃のパソコンで素人でも出来る護身術を調べたことも覚えている。結果的にその知識を活かす機会はなく済んだのだけれども、そのストーカー男はパティシエ志望だったらしく、離縁を希望している姉の(つまり私の)家の前にケーキを入れた箱を置いて去るなどの行いをしたため、我が家ではしばらくパティシエという単語は禁句だった。迷惑な話だ。

その後別の男とかなり長い年数付き合っていたが、それも到底姉と馬が合っているとは思えず、旅行にいっても好きなことが出来なかったと大抵疲弊して帰ってきていたし、あまり幸せそうには見えなかった。

何がよくて付き合ってるのは甚だ謎ではあったが、暴力を振るわれている様子はないし、個人の自由なので私から姉に文句を言ったことはない。

姉としてはその男に魅力があったのだろうし、最終的に「これ以上続けても同じことの繰り返しになる」と言って喧嘩の末分かれていたので、まあいいんじゃないのと返事をしたくらいだ。

付き合っていた期間が期間だったため姉も疲れたのか、それ以来男の影は現れず、それまで姉は恋愛脳の人種だと思っていた私は意外に感じていた。

それがである。

 

一緒に行った占いで姉が「最近気になる人がいる」と姉が言い出した。

別にそれはいい。それはいいけれども、次いで出てきた言葉が問題だった。

「その男はどうしようもないクズなんですけど」。

いやクズ好きになるなよ!というのもあったけれども、ヤバいのはその男に心当たりがあったことだ。姉の職場の上司で、気に入らないことがあると誰彼構わず怒鳴り散らし、暴言を吐く男だった。姉の交友関係に男がそれだけだとは思わないが、クズという姉の言いぶりに、間違いないと私の勘が即座に告げる。

えっ 嘘でしょ?寄りにもよってそこ?そこ好きになる??

占い師さんの前で私の内心は大嵐だ。

だって自分で「あの人は頭がおかしい」って言ってたじゃーん。あの人には私しかいないのって、そんなのはドラマかマンガの中だけで充分だ。

勘弁してほしい。これが赤の他人ならクズでもなんでも付き合ってくれていいが、姉は家族だ。しかも互いに実家暮らしなので生活拠点も同じである。

職場で一人ものすごい駄目男と結婚した人がいたが、その人は相当エネルギッシュでありキャリアウーマンだったので周囲も首を傾げつつ「まあ個人の自由だもんね」で済ませられた。

が、姉は言ってしまえば私よりも精神は弱い。隠れ豆腐だ。見かけはレンガだが絹豆腐どころではない。

駄目な男を好きになるならマウンテンゴリラくらいの強さを持ってもらわなければ困る。雌じゃなくて雄。群れを率いるボスくらいのタフさがあればこっちだって安心して「君は森で、私は街で暮らそう」と言える。

人間社会に言い換えるなら、せめて一人暮らしする経済力くらい持って、ラテン系の底抜けの明るさを身につけてから駄目な男を引っかけて欲しい。

自己保身ももちろん多大にあるけれども、大切な家族が傷ついているのを見るのは誰だって辛い。そして家族のそういう気持ちがイマイチわからないのが姉という人だ。

占い師さんが即答で「ははっやめときな。だってクズなんでしょ?」って言ってくれたのだけが一縷の望みだ。

とはいえ、姉が幸せを感じるのなら、暴力振るわれたり借金まみれにでもならない限り喜ばしいことだとは思う。赤の他人を愛おしいと思えるのは奇跡のように幸せなことだ。そういう意味では祝福してはいる。

まあ、でも、クズを好きになるなよ・・・・・・と思うことは、許してくれるだろう。どっかにいるかもしれない神様とか、それっぽいものが。

結婚と言う私の敵

この記事にこれから書くことは、誰かを傷付けたくて放つ言葉ではない。
結婚という、言うなれば私の敵に対する文句とフラストレーションであり、すべて個人の身勝手な感情の発露だ。

 

結婚とは「素質」だと、私は常々感じている。
ここで、というより私がこのブログで使う結婚とは、多くの家庭が形作る家庭の形を指している。大概は女性が家事を行い、子供を生めば女性が主に育児をする、といった家庭のことだ。育メンだなんだと取り沙汰している時点では前記の枠組みの域を出ない。
結婚をするための素質とは、そういった家庭形態を受け入れられるかどうか、である。

 

そんなものは当たり前だと思うだろうか?
そう感じるとしたら、あなたは素質がある。
世の中には私のように、断固として受け入れられない人間もいるのだ。

 

私の家は母子家庭の女系家族である。
母は一家の大黒柱として男性と同じ仕事をこなし娘二人を育ててみせた。男性に頼らずとも生きていけるし、家事は分担せずとも気付いた者がやればいい。
そんな家庭で育ったからと言えばそれまでだが、私は生きることにおいて男性が必要だとは感じない。
恋人がいてもいいが、毎週会うなんて正気の沙汰ではない。趣味が生活の中心である私にとって、自由時間は趣味と友人と恋人とに等分されるべきものであって、そのどれかがどれかの時間を侵すことはあり得ない。
私にとって恋愛とは、結婚と結びつかないのだ。

 

だけど世の中の多くの女性は、息をするように結婚のシステムを当然のものとして受け入れている。それが私には不思議で仕方ない。

 

私をわがままだと思うだろうか。別にそう言われても構わないが、私としては自然に考えた結果なので、わがままに振る舞っているつもりは無い。
少子化は深刻な問題だが、日本の社会が結婚も出産も自由意志を認めている以上、誰も私を、そして私と同じく結婚を敵とする人を咎められはしない。
世間に流れる風潮がどれだけ私たちにとって息苦しくあったとしても、私たちは間違っていないのだ。
子供を生まない女性に価値は無いと言い放つ政治家が糾弾されるのであれば、たとえ独身であることに冷めた視線で刺されようとも、身を縮める必要なんてこれっぽっちもありはしない。

 

今の日本の家庭は本当にイーブンだろうか。
出産という役割が動かせない以上、仕事と生活環境のリスクを負うのは女性ばかりで、だというのに女性が育児をしながら働かなければ成り立たなくなってきている経済状況で、本当に結婚は幸せなのか。

 

私はそれがどうしても飲み込めない。
育児のために男性の収入に一時でも頼らなければならないことも、収入と拘束時間の差で家事の大小が変わることも我慢がならない。いざやらねばならなくなり、パートナーに親愛を持てていれば、そういった生活も可能だろう。だがわざわざ婚活なんぞして自らその場に身を投じようなどとは思わない。

 

重ねて言うが、私は結婚できる、結婚を望んでいる女性を責めているわけでも馬鹿にしているわけでもない。
ただ、彼女と私を隔てているのは、やはり生まれつきと言ってもいい結婚の「素質」なのだ。
そして、今の自分を肯定するのと同時に、結婚の「素質」を持つ人ことがたまに、たまらなく羨ましくなる。
そんな、結婚制度を嫌悪しながらも刷り込まれた結婚へのキラキラとした憧れを知らず抱えている自分すらも、愛してやらねばと思うのだ。

 

私たちはもっと、この不経済と半端な自由と自立を許す社会で生きる自分たちを、愛して許してあげてもいい。

 

結婚なんてしなくていい。

というのを、私は最近になるまで知らなかった。

 

28歳。出身も今の住まいも都会だからか、周囲から結婚の話題が上がるのは遅い方だった。それでも一人二人とめでたい知らせをもらうことがあり、出産をした友人もいる。職場の先輩は二人とも二児の母で、生まれる前からの付き合いだというのにそろそろ上の子は小学校に上がると言う。だから私にとって結婚という話題は日常的なものとして常に側にあった。

しかしそうでありながら、「結婚」の二文字は私と何らリンクしないまま、距離だけ近くそこにあった。

私にとって結婚は「いつかしなくてはいけないこと」だったのだ。

 

子供の頃、私は平凡な人生を歩むだろうと思い込んでいた。

平凡な人生とはつまり、二十代で結婚と出産をすることだ。平凡平凡というけれど、この頃の私にとって平凡ほど重要なものはなかった。安定を求めていたし、それでいて私にも手が届く絶対的な将来像だった。だけど「そうしたい」と思ったことは、振り返ってみると一度もない。

母子家庭であまり親に苦労をかけられない状況のせいもあると思うが、小学校高学年くらいからの私の将来設計は、短期大学を出て事務職員として稼ぎを得ることというなんとも無難なものだった。

今思えば「何をそんなに下を向いているんだ」と声を掛けたくなる俯き具合だが、しかし自己肯定感の非常に低い子供だった私は、それ以上のことなんて自分が出来るはずもないと信じていた。

その上、私は世間一般の「普通」に恐ろしくこだわっていた。普通でなければいけないし、普通であれば安心だと思っていた。

だから結婚も、するべきなのだからするのだと思っていた。出来ると思っていたのだ、全く興味も夢もないけれど。

 

だが、実際結婚適齢期になってみると、驚くほどに結婚をしたくないのだ。

するべきなのはわかっている。だけど本当に、心の底からしたくない。してもいいかな、と思える理由が一つもない。ただただ、「普通」は結婚をするから、それだけの理由で結婚を考えている。それに気付いたとき、私は結構絶望したし、苦しんだ。

あと一年経てばその気になるかもしれない。来年なら、もっと先なら。

そうして先延ばしにして「本当に結婚はしなくてはいけないのか」と疑問が浮かんだのはつい最近のことだ。

 

結婚について嫌なことはいくつかある。

でも一番の理由は「興味がない」ただそれだけだ。

しなくていいならしたくない。子供を望んでいないし、今の収入でも将来への備えは出来る。キャリアアップを目指して努力するのは嫌いじゃない。

なら、それでいいじゃないか。そう思えたとき、私は長らく自分を痛めつけていた苦しみから解放されたような気がした。

 

結婚なんてしなくていい。

嫌なことはしなくていい。

社会への貢献は働いて為せばいい。

いつか家族が旅立ち一人になったとき、寂しくなったら連れ合いを探せばいい。

 

そんな私は、間違ってなんかいない。

 

私はそれを声を大にして言いたくて、その上でいろんなことを話したくて、こうして筆を取ることにした。